日記
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SNSと言ってもTwitterしか知らないが.....
FacebookやInstagramの他にもコロナ以降検閲の無いSNSがいくつか現れたが、私は何れも使っていない。Twitterだけ。当初は情報の収集のつもりでアカウント取得し、ほとんど発言書き込みすることは無かった。
情報提供者にお礼をするときに短い書き込みをするくらいだったのだが、たまに腹に据えかねる書き込みがあると、不思議なもので反論せずにはいられなくなる。これがSNSに浸かり始めるきっかけなのだと今になって思い返す。怒り。この感情が書き込みを誘うのだ。そして自分の意見表明をし出すのだ。大方の人にとってはこれは肯定的な成り行きなのだろうし、積極的に自己表現をすることは大切なことだ、とは思う。
しかし、それが一年、二年と続くと私は自分の発言の矛盾にしばしば気づいてしまう。そしてその言葉の矛盾、論理の矛盾を覆い隠すように様々な修飾をするようになった気がする。それは科学的な装いをしながらだったり、倫理学の孫引きだったりした。
おりこうさんでいようとする発言ほど自己を押しつぶす。ほんとうは啖呵切って「んなことどうでもいいことだ」とは言えない自分。
コロナ騒動は嘘がほとんどだと思い始めたのは2020年の3月、クルーズ船プリンセス号の問題が大きくなった辺りからだ。「何か胡散臭い」「これは作られた事件だ」と直感させるものがあった。それでも、万が一を考えて感染対策をと言い募る側の圧に屈してマスクを購入したり消毒液を結構必死で入手したりした。何か変だ、という違和感を抱きながらの世間との並走であった。
マスク圧に負けた時期もあったが2022年の春には仕事の時以外は街中でも満員電車でもマスクを外していた。今は仕事中も他のスタッフはマスク装着しているが私はしていない。誰も何も言わない。お客も何も言わない。
2020年は米大統領選挙もあり、SNS界隈はコロナ騒動と絡めるようにして激しい論戦が続いていたし、世界が狂ったようになった。様々なイベント中止があり、オリンピックの2021夏への延期が決まったのが2020年3月11日。ダラダラとそして息苦しさに締め付けられるような月日が過ぎていく。春の選抜中止、オーバーシュート(爆発的感染拡大)という言葉が専門家から飛び出した3月9日。
4月1日に亡き安倍首相が布マスク2枚を全戸配布すると方針。4月7日に東京都、大阪府、福岡県、埼玉県、千葉県、神奈川県、兵庫県に緊急事態宣言が出された。
ここでいわゆる感染拡大期の波を振り返ってみる。
第1波 2020年1月~5月
第2波 7月~9月
第3波 10月~2021年2月 (2月17日から医療従事者先行接種が始まる。、高齢者は4月から。以降随時基礎疾患のある人、高齢者施設職員)
第4波 2021年3月~6月 (一般15歳-64歳への接種は5月末から随時自治体で)
第5波 7月~9月 (先行接種者の3回目接種、ファイザーは11月、モデルナは2022年1月から)
第6波 2022年1月~6月 (3月29日時点:1回目80.9%、2回目79.4%、3回目39.8%が接種。四回目接種開始は5月25日から)
第7波 7月~9月 (2022年10月21日から5回目接種開始)
第8波 10月~2023年1月 (2023年5月8日から6回目接種開始)
第9波 2023年6月14日 感染症対策分科会長尾身氏「第9波の入り口に入ったのではないか」と語る
ついでにワクチン接種状況を拾う2023.6.13現在のNHK資料
6回目まで接種している人が1千万人を超えているんだね。単純に驚くよ。
今となっては、私がマスクを拒否し出したのがいつ頃からなのかはっきりとは覚えていないのだが、今年に入ってからは仕事場でもほぼ拒否してきた。今年の5月8日過ぎてからは完全にどんな場面でもマスクはしていない。
振り返るに2021年オリンピック前には満員電車以外ではマスクをしなかったが、さすがに満員電車でマスクを外しているのは恐かった。感染するかも知れない感染させるかも知れない怖さではない。マスク警察とのトラブルは避けたかったからだ。このあたりが根性が入っていない小心者であったのだ。満員電車でもマスクを外し始めたのは2022年に入った辺りだったろうか?あるいはそれより前かも知れないが、確かに覚えているのは2022年の夏には汗拭きタオルハンカチを手に山手線の満員電車に乗っていたことを覚えている。
マスク信奉者には信じがたい愚挙で、暴挙と思わるだろうが、私の調べ尽くした果ての結論は、この新コロのウイルスと呼ばれるものは存在しないということであった。もし当時感染と言われる事態があったとすれば、それは撒かれた感染性の無い毒素であるだろうということだった。そしてその毒素は人から人へは感染などしないのだ。その環境に毒素があったということである。
もし本当に感染性のウイルスであったなら、鉄道沿線での感染拡大図が描けたはずなのにそのような図をついぞ見たことは無い。
実際は集団ヒステリーに陥っていた大多数の妄信と思慮のなさが生んだ感染お化けだったのだと思う。重篤な呼吸器疾患を呈すると言われていたはずなのに、いつの間にか心筋炎を起こすなどと病態が変異していることに疑問を持たない大多数を私は全く信じない。ウイルス株の変異と共に病態も変異するのだとか、ほんと都合の良いウイルス感染症だと思わざるを得ない。
ワクチン接種が開始されてからの事態は、医療側にとっては都合よく推移することになる。ワクチン副作用被害はコロナ病態に置き換えられ、受診への誘いとなっている。根本からの改善快癒が期待できない症状を対症療法で切り抜けることで受診の長期化が計られるというわけである。
現代医療の持つ詐欺性を利用した世界的なパラダイム変換への道筋は時々刻々と支配者優位のまま進んで行く。
尻切れトンボだが、今日はこの辺で。
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こんな街に私は住んでいたことがあるらしい
今となっては記憶などというものは全くあてにならないことがはっきりと認められるので、この写真の街に私が住んでいたかどうかなどどうでもいいことなのだろう。
レンガ造りの建物は確かにあったし、それは名の通った建築物でもあるのだからこの写真のような佇まいかどうか見る人が見れば明らかなこと。つまり、この写真は大嘘でもある。
私はその大嘘の景色に愛着あり、この街がかつて住んだことのある街であることに違いないのだと思うことは道理がないわけではない。
即ち、街はいつも記憶の漂いの中で美しく輝き、寂しく思い起こされ、悲しく忘れていくものなのだと思うので、たとえ嘘街であってもわたしの心の映写機としては一向に差し支えは無い。
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無題
母の死はあまりに早かった。45歳の死を私は耐えた。じゅうぶんに耐え抜いた。だがやはり、耐えがたい死なのだと感じる。あれから何をしても、夢中になれそうな遊びや読書、SNSでの書き込みなどしても、ふと気づけば自分の中は空っぽなのだと。
ひとりしか生存していない娘が産まれたのが、母の死の二日後で、まさに生まれ変わりであり、娘に会えば母を思い出し苦しくなる。もう死んでもいいんだと思う。死にたいと思う。母の死の年齢を遙か後方に振り返りながら、それでも今の同伴者と長く連れ添うことに決めている。連れより長く生きねばならないと思う。それは、連れは病気で倒れて以来、運動機能に障害があるから、介助犬である私が先に逝くわけにはいかない。
話を飛ばすが、SNSは情報を収集する場としてはとても有用だが、麻薬のような依存性を感じてなるべく離れたいという忌避感が働くのです。けれど時代はいつも変動期であるという終わることのない特別感、唯一性、特殊感を与え続けるだけの装置に思えてもいます。ひとの心の退屈と物理的な暇を埋め尽くすための何かを求めている自分を感じないわけにはいかない。SNSは格好の舞台なのだろう。遊んでいるつもりが遊ばれてしまっている、そんな感じがしてならないのです。
消そうと思います。どのアカウントであるかを知っている人はただひとりです。そのひとはこのブログを読むことで了解してくださると思います。
話が飛ぶ無礼をご容赦ください。
ではまた近いうちに。
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無題
「蛍」を読み終えたとき、私は嗚咽を堪えきれなかった。それは血縁の濃厚な繋がりの持つ得体の知れぬ粘ついた頑丈な糸のようなものに雁字搦めにされた暮らしの運命みたいなもの、逆らいがたいその定めは拒絶されるべきものであるのか、強く抱きしめるべきものなのか。
親が子に為すことで、子が知らないことはきっとたくさんあるのだと気づかされた。逆の場合も当然にあるだろう。
この物語の中では、蛍の死骸を娘に見せたくなくて三津子が朝目を覚ます前に蛍を蚊帳から出してしまう母。長姉の市子からこの話を聞かなければもしかしたら生涯知らずに過ごしてしまうことになっていたかも知れない。三津子は長姉である市子からその話を聞いたあと、だからと言って母を愛しいと思い直すことも叶わない。過去の長い関係から身に染みてしまった澱のような実感は消えるものではない。これは亡き父に対する私の混乱と似ていると思った。
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作品ふたつ読了
ある小説家の作品をふたつ読んだ。ひとつは関東の一地方紙の一面いっぱいに掲載されたカタカナ文字の題名を持つ作品。もうひとつは東北地方の短編文学賞を集めた作品集に掲載されているもの。その女性は他にも書かれているようだが、私の手元にはない。
長編は無いようだが、この2作品より長い作品を読んでみたいと思った。ふたつの作品は短編に相応しい物語の締め方だと思う。
私は読むばかりの人間で、あれこれ注文をつける立場にないけれど、長編を書いたらどのような作品が出来るのか楽しみではある。ここで少し圧をかけておくと奮起長編に指先は進むだろうか?
パソコンで書いているのか、原稿用紙に手書きしているのかは分からないけれど、今はキーボードで綴る人が多い気がしている。私はキーボードでしか文章を書かなくなってしまっているが、それは書こうと思う言葉と記述のリズムがピッタリ合う気がしているから。紙に書き落とすのは誤字や脱字によってリズムが崩れ、途中で書く気が削がれてしまうから。紙に書く方が良いという人もいるが、私はそうではない。言われても気にはしない。
さて、ふたつの作品についての読後感想を書くべきページなのだけれど、なかなか進まないね。
それは気乗りがしない、というのではなく、また何かご宣託のように書きたいからでもない。私が感じた心の在りようを素直に表出するにはどのような言葉を選ぶべきなのかを考えてしまうからなのだ。つまり徹底的に褒めたいし、あの感動をどう表現したら分かってもらえるかをこそ心配している。
つまり、充分にこの心は動いたわけで。
とりあえず今日はここまでにしてページをアップしておくことにする。
まぁ、ここは雑記帳なわけで勘弁してもらうね。
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