無題
母の死はあまりに早かった。45歳の死を私は耐えた。じゅうぶんに耐え抜いた。だがやはり、耐えがたい死なのだと感じる。あれから何をしても、夢中になれそうな遊びや読書、SNSでの書き込みなどしても、ふと気づけば自分の中は空っぽなのだと。
ひとりしか生存していない娘が産まれたのが、母の死の二日後で、まさに生まれ変わりであり、娘に会えば母を思い出し苦しくなる。もう死んでもいいんだと思う。死にたいと思う。母の死の年齢を遙か後方に振り返りながら、それでも今の同伴者と長く連れ添うことに決めている。連れより長く生きねばならないと思う。それは、連れは病気で倒れて以来、運動機能に障害があるから、介助犬である私が先に逝くわけにはいかない。
話を飛ばすが、SNSは情報を収集する場としてはとても有用だが、麻薬のような依存性を感じてなるべく離れたいという忌避感が働くのです。けれど時代はいつも変動期であるという終わることのない特別感、唯一性、特殊感を与え続けるだけの装置に思えてもいます。ひとの心の退屈と物理的な暇を埋め尽くすための何かを求めている自分を感じないわけにはいかない。SNSは格好の舞台なのだろう。遊んでいるつもりが遊ばれてしまっている、そんな感じがしてならないのです。
消そうと思います。どのアカウントであるかを知っている人はただひとりです。そのひとはこのブログを読むことで了解してくださると思います。
話が飛ぶ無礼をご容赦ください。
ではまた近いうちに。