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無題
「蛍」を読み終えたとき、私は嗚咽を堪えきれなかった。それは血縁の濃厚な繋がりの持つ得体の知れぬ粘ついた頑丈な糸のようなものに雁字搦めにされた暮らしの運命みたいなもの、逆らいがたいその定めは拒絶されるべきものであるのか、強く抱きしめるべきものなのか。
親が子に為すことで、子が知らないことはきっとたくさんあるのだと気づかされた。逆の場合も当然にあるだろう。
この物語の中では、蛍の死骸を娘に見せたくなくて三津子が朝目を覚ます前に蛍を蚊帳から出してしまう母。長姉の市子からこの話を聞かなければもしかしたら生涯知らずに過ごしてしまうことになっていたかも知れない。三津子は長姉である市子からその話を聞いたあと、だからと言って母を愛しいと思い直すことも叶わない。過去の長い関係から身に染みてしまった澱のような実感は消えるものではない。これは亡き父に対する私の混乱と似ていると思った。
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作品ふたつ読了
ある小説家の作品をふたつ読んだ。ひとつは関東の一地方紙の一面いっぱいに掲載されたカタカナ文字の題名を持つ作品。もうひとつは東北地方の短編文学賞を集めた作品集に掲載されているもの。その女性は他にも書かれているようだが、私の手元にはない。
長編は無いようだが、この2作品より長い作品を読んでみたいと思った。ふたつの作品は短編に相応しい物語の締め方だと思う。
私は読むばかりの人間で、あれこれ注文をつける立場にないけれど、長編を書いたらどのような作品が出来るのか楽しみではある。ここで少し圧をかけておくと奮起長編に指先は進むだろうか?
パソコンで書いているのか、原稿用紙に手書きしているのかは分からないけれど、今はキーボードで綴る人が多い気がしている。私はキーボードでしか文章を書かなくなってしまっているが、それは書こうと思う言葉と記述のリズムがピッタリ合う気がしているから。紙に書き落とすのは誤字や脱字によってリズムが崩れ、途中で書く気が削がれてしまうから。紙に書く方が良いという人もいるが、私はそうではない。言われても気にはしない。
さて、ふたつの作品についての読後感想を書くべきページなのだけれど、なかなか進まないね。
それは気乗りがしない、というのではなく、また何かご宣託のように書きたいからでもない。私が感じた心の在りようを素直に表出するにはどのような言葉を選ぶべきなのかを考えてしまうからなのだ。つまり徹底的に褒めたいし、あの感動をどう表現したら分かってもらえるかをこそ心配している。
つまり、充分にこの心は動いたわけで。
とりあえず今日はここまでにしてページをアップしておくことにする。
まぁ、ここは雑記帳なわけで勘弁してもらうね。
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卯年です
一連のSolitudeサイトの所在を今まで誰にも教えたことがない。けれど、昨日初めてある方にURLを送った。その方は散文家(小説を書いている)であり、SNSで知り合った。会ったことはない。これからもきっと直接お会いする機会はないだろうと思う。すべてはなすがままであるが...。
ものがたりはこの身体と脳裏にたくさん詰まっていて、あとは言葉として表記すれば良いわけだが、どうも散文は苦手で妄想だけが膨らむと言葉に物語性を与えることが不可能になるくらい収集が付かなくなる。詩文や前衛ぶった難解発話は妄想の嵐を受け入れてくれる。まぁ、要するに根気と構想力が無いことを自身が理解しているというわけ。もっとありていに言えば、才能はない。
ところで、漸くコロナの政治的な落とし所が見えてきたのかも知れない。それにしても当初4月に入ったらと言っていたのが、日を置かず4月下旬となり、あげくは5月上旬とか言い出していて、困惑というより、呆れるというかどんよりした怒りに身が浸されるというべきか。
コロナ施策は感染防止の観点などかなぐり捨てている。単なる政治的な案件でしかなかったのだと知るばかり。ワクチンを接種しておらず、日常でマスクを着けることはなくとも元気な自分がいる。とはいえ寄る歳波、視力・反射神経・聞こえなどほろほろと崩れ落ち始めてはいるのだ。
で、何を書こうと思ったのか忘れた....
そうそう、SNSへの反応もそろそろ少なめにしていこうと思い始めている、ということを書きたかった。
SNSでたくさんの情報に接することができ、コロナ騒動下にあっても基本的には冷静な判断が出来たと思っている。SNS情報には感謝。
SNSでなるべく個人情報を発しないように気をつけてはいるけど、その場の心の動きの中で、つい書いてしまうことがある。ブログなら推敲する時間はタップリあるので、あらぬことを発信するのを避けることは容易、とは言ってもブログでも発信してしまうことはある。後日削除しても誰かが保存していれば、消したつもりが足跡だけは永遠に残ろことになり焦ることに。
SNSもある程度の推敲時間を取ることは出来るが、なにせリアルタイムで進行し、画面が流れていくので、書いたら間断なく押してしまうことがデフォ。
こちらの心の状態が不調のときに限って”すぐに押して”しまう。何度か後悔はあり、都度削除するけどスクショされている可能性も否定出来ないあたりが怖い....
というわけで、SNSとの付き合いは冷静さを保ってほどほどに。という話でした。
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普通の人にとっての世界が壊れていく
私はコロナ騒動は作られたものだと考えている。世界の国々が歩調を合わせるかのように、新型コロナウイルスは恐ろしい感染症を引き起こすと喧伝し、マスク強要やロックダウンやらを国の政策の優先順位上位に上げて対策した。だがその対策は一向に功を奏さず、PCR検査の陽性という感染者数を積み上げていく。症状がなくても感染者扱いとし、隔離・入院をさせ、内亡くなった人や重傷者をマスコミは大々的に報道した。
人々はまんまと乗せられ、この感染症は侮れないと思い込んだ。
政府、保健当局やマスコミは人々の心と行動を追い込みみ羊のように飼い慣らすことに終始し、日本ではほぼ全面的に成功している。
海外ではその嘘が自由の剥奪へと進んでいることを知り抵抗する人々が多数いる。が、その抵抗の姿は日本では決して報道されることがない。SNSなどを丹念に探せば人々の抵抗の姿を見つけることが出来る。
世界を根本的に変え、強固で数少ない支配層と従順で弱い大多数の羊。そのような世界へと誘導しようとする階層の人間がいることは明らかだ。
この事態に恐怖し、感染症による死を怖れた大多数の人々は「自由」こそが世界の根本であることに気づくことがない。
世界は壊れた。
私は近い将来に於いて、この階層分断が強固になることはあっても弱まることはないだろうと思っている。
再び人々の人生に「自由」が戻ってくるには、長い年月を必要することになるだろう。100年か200年か・・・。
だが、今ならまだ間に合うのかも知れない。
数は少ないが「自由」への闘いに参加している人は存在する。
そして私も「内心の自由」を売り渡すことはしない。
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孤独であること
知人は多数いるし、電話番号の交換もしているから連絡は取れる。
だが、仕事以外で電話したことなどないし、一緒に飲みにいくこともない。何度か誘いはあったが何かしら理由を付けて断り続けると誰もそのうち誘わなくなる。
それで構わない。そんな孤独症を見かねた同僚に、仲間は何かあったときに助けてくれるよ。と言われたことがあるが「そうだよね、でも酒は飲めないし会話も苦手だし、家でやらなければならないことがたくさんあるので・・・」と笑顔で言い訳する。
(ひとりでいたいだけ)とは言わない。
だから、コロナのステイ・ホームというスローガンも私にしてみれば、通常の生活をしなさい、と言われているに過ぎないのだ。
ただ、マスクだけはどうしても慣れることが出来ず、店舗に入場する時以外の外歩きでは外している。ヘルペス悪化したせいもある。
相方が仕事のことで、たぶん人間関係だと思うが悩んでいて元気がない。時々泣いている。慰めようがない。こんなとき私はオロオロしてしまい、何ひとつ力になれない。私も泣きたくなる。
相方の不調に引きずられるようにして、今の私は情報を拾う作業に疲れている。SNSを覗いても一言も呟かなくなってしまった。
つまり、個人的生活はそれどころではなくなっている。
共鳴してしまった私は悲しみを受け入れる。
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