09 June

風に名を呼ばれた日

序文

名を呼ぶ声が 届かぬとき

人は その声を

胸の奥で叫び直すしかない

返せなかった

返してもらえなかった

その名が 胸に宿るとき

やがて人は 風の一部になる

誰にも届かない名を

ただ 呼びつづける風になる


風に名を呼ばれた日

 真夏の昼下がり、潮騒の音を枕に小一時間うたた寝していたシユウは、まだはっきりとしない現を引き寄せるように、天井の黒い梁を目で追っていた。

やがて、シユウの胸のあたり、どの辺りか定かでない場所から、ジワッと熱いものが滲み出してきて、それが段々と胸いっぱいに拡がる。

突如、大声で叫び出したい、と思った。

それがユウへの恋心ゆえなのか、己の未来(さき)への身のやるせなさから来るものなのか判りようもなかったが、心底からの声、奥底からの叫びをシュウは欲していた。

シユウは目を3秒瞑った。4秒目の次の瞬間、突然に跳ね起きると部屋の障子戸を音を立てて開け、階下に駆け下りた。

玄関に出てスニーカーを穿こうとするがうまく行かず、つま先でトントンと足を押し込みながら、まだ入りきっていないにもかかわらず通りへと走り出た。

坂になった通りを駆け下りていくシユウの眼の前に、真夏の真っ青な海が飛び込んできた。干されている天草が並ぶ路地を抜け、イカ釣り船の脇を駆け抜けて、防波堤の上を走り続けた。その先に拡がる白い砂浜には誰もいない。暑過ぎる浜には子供たちは出てこない。今頃はどの家の子も昼寝を決め込んでいるのだ。気だるいやる気の失せた夏が小さなを漁村を包み込んでいた。

シユウは堤防が切れると、砂浜に飛び降り乾いた砂に足を取られながらも、その先を目指した。浜の先の岩場の水際に緩やかな白波が立っていた。太陽は真上にあり、シユウの影は身軽な黒い球のように弾みながら後について走っていく。

砂浜が終わりゴツゴツした岩場に足を踏み入れた。岬の岩場にシュウは手をかけ、天辺までよじ登り、水平線に向かって立った。シユウは水平線の上に広がる青い空を吸い込むようにして呼吸を整えた。

蒼い海上をキラキラ輝きながら船がゆく。南から来て北の果てへと連絡する豪華客船の航路は水平線とシュウとの間にある。シュウはその航路の上を歩きたいと思った。

息を整えたシユウは沖を行く船に人の影を探した。見えるはずもないほどに離れているのに、シユウには見える気がした。オレもあそこにいる。もうひとりのオレがあそこにいるのだと思った。遠くない日に、この腐った魚の臭いに包まれた魚篭から出て確かな自分が存在するだろう世界へと、オレも出ていくのだ。

シユウは、そうやって胸に溜まった叫びたい衝動を鎮めていた。それは若さの中で何度となく繰り返された。

水平線とシュウの間を滑るように過ぎてゆく船を眺めていると、ついさっきまで堪え切れないだろうと思われた叫びが静かになだめられて落ち着きを取り戻すのだった。

岬の切り立った崖に立ち、シャツを脱ぎ、ズボンと下着も一気に脱ぎ下ろすと、全身を太陽に晒した。ギラギラと射すような光の束がシユウを襲う。若い筋肉に影が出来、あらゆる陰影の在りようがそこに表現されていた。

シユウは両手を拡げ、そして頭の上で閉じた。フワリと宙に舞うと美しい弧を描いて堕ちていく。深緑色した弁景の舟隠しと漁師が呼んでいる深淵が迫っていた。

終章

叫びは風になり

風は名を忘れる

忘れられた名は 崖に落ち

まだ海にも届かないまま

遠くから船が来る

でも誰の名も知らない

そうして

少年は

名を返せなかった風として

永遠にあの場所を 吹きつづけている



ーーーーー
第一章 風の名を聞いた日

 転校して三日目の午後、ナツミは校庭の隅に生える古い椿の木の下に立っていた。

 誰も使わなくなった、苔むした石のベンチがその根元に沈んでいる。

 空は、真っ青というより、少しだけ白っぽい。陽の輪郭が滲んで、空と海の境が溶けかけていた。

 

 授業はまだ終わっていない時間だったが、ナツミは保健室からの帰りに、こっそりと道を逸れた。頭が痛いわけではなかった。ただ、教室の声が、世界からほんの少しずれて聞こえていたのだ。

 

 学校の裏手には、海まで伸びていく斜面があり、その先に岬が張り出している。

 村の大人たちはあそこを「舟隠し」と呼ぶ。けれど、ナツミにはその言葉がどうしても不安を誘った。舟を隠すための岩場に、いったい何を隠しているのか。

 

 ナツミはその岩の先に、誰かの気配を感じた。

 誰もいないはずなのに、確かにそこに誰かが“立っていたことがある”という記憶だけが、海から吹き上げる風に混じっていた。

 

 ──ナツミィ。

 

 耳元ではなく、首のうしろを撫でるような声だった。

 風の音に似ていた。でも、風にしてはあまりに言葉の形がはっきりしていた。

 

 ナツミは振り向かなかった。けれど、肩だけが小さく震えた。

 何も言い返さず、岬に背を向けて、早足で校舎に戻る。

 

 

 その夜、ナツミは母と暮らす借家の縁側に座っていた。

 夜風が畳の香りに混ざって吹き込んでくる。母は薬を飲んだあと、すぐに寝息を立てた。

 その家の裏手に、ひとりの老人が住んでいる。クニジイと呼ばれるその人は、昼間にいつも小さな椅子に座って海を見ていた。

 

 ナツミはふと、縁側から声をかけてみた。

 

「クニジイ、今日、海から名前を呼ばれたみたいな気がしたんだけど……そういうことってある?」

 

 老人は椅子から腰を浮かせず、少しだけ首をこちらに向けて、答えた。

 

「……返事は、しておらんだろうな?」

 

「え? ううん、してない。怖かったから」

 

「そりゃ、よかった。よかったよ」

 

 クニジイは、少し笑って、そして低くつぶやいた。

 

「この村じゃ昔から、名を呼ばれるもんが時々おるんじゃ。風が呼ぶんじゃない。あれはな、"まだ帰れぬ者"が呼んどる」

 

 ナツミは目を見開いた。

 

「帰れぬ者……って?」

 

「魂の片っぽを置いていったまま、行ってしもうた者よ。自分の名前を持たんまま、海の向こうに出てってな。あいつらは、誰かの名を借りなきゃ、生きられんのじゃ」

 

 老人の目は、夜の海の黒さを映して深く沈んでいた。

 

「だからな、ナツミ。名を呼ばれても、けっして返しちゃならん。返事をすれば、おまえの名が、向こうに引っ張られてしまう」

 

「引っ張られる……?」

 

「名っちゅうのはな、魂の錨(いかり)よ。おまえが返事をすれば、その錨を抜いてしまうことになる。すると、もう、帰ってこれん」

 

 縁側に沈黙が降りた。

 ナツミの手のひらがじんわり汗ばんでいた。さっきの声を思い出す。あのやわらかい呼びかけは、まるで懐かしい誰かに名前を呼ばれたようだった。

 

「……でも、あの声、優しかったよ」

 

「優しいのがいちばん怖いんじゃ」

 

 クニジイのその言葉に、ナツミは何も言えなかった。

 

 虫の音が、夜の草むらからぽつぽつと響き始めていた。


第二章 舟隠しの夢

 その夜、ナツミは何度も寝返りを打った。
 風が止んだあとの夜は、しんと音が吸い込まれたような静けさに包まれていた。
 母の寝息が部屋の奥からかすかに聞こえる。時計の音が、ひとつずつ間を刻む。

 夢のなかで、ナツミは舟隠しに立っていた。

 けれどそこは、昼間に見た岩場とはまるで違っていた。
 空は深い群青色に染まり、波は音もなく静まり返っていた。岩場の輪郭はぼんやりとして、ところどころが白く光っている。
 月はなかったが、海は淡く光っていた。そこには現実ではありえない静寂があり、ナツミは足音すら立てずに歩いていた。

 岩の影の先に、人影があった。

 男の子──いや、少年というには少しだけ大きい、けれど青年というにはまだ幼さの残るその人は、白いシャツを脱いで、裸足で立っていた。
 ナツミはその背中に、なぜかとても懐かしい気配を感じた。
 その人が、こちらを振り向く。

「……シュウ?」

 自分でも、なぜそう呼んだのかわからなかった。
 けれど、彼は笑った。ゆっくりと、ナツミの方へ歩いてくる。

「君も来たんだね」

 その声は、現実の誰とも違っていた。低くも高くもない、風の間に落ちる水音のような響きだった。

「君は……どこから来たの?」

 ナツミが聞くと、彼は小さく首を振った。

「来たんじゃない。呼ばれたんだ。名前を呼ぶ声が、君のなかにもあるだろ?」

「名前……」

 ナツミは口元を押さえた。確かに、自分のなかからも時折、自分の名前がこだまするような奇妙な瞬間があった。それは呼ばれるというより、思い出される感覚に近い。

「シュウって……あなた、名前を失くしたの?」

 彼はふと、水平線の向こうを見やった。
 そこには、音もなく船が滑っていた。どこから来たのか、どこへ向かうのかはわからない。

「ぼくは、忘れられた名前なんだと思う。だから、君に呼ばれた」

「私が?」

 彼は小さくうなずく。

「君はまだ戻れる。まだ、名を持っている。でも、返事をしすぎると、戻れなくなるよ」

「……返事って?」

「夢のなかで応えること。声を覚えてしまうこと。ここに来ることすべてが、返事になる」

 ナツミは、足元を見た。
 舟隠しの岩は、まるで海の底のように冷たく透き通っていた。自分の影が、そこに映っていない。

「あなたは、いつからここにいるの?」

「十年前。あの日から」

 彼の言葉は風のように、海のように、どこまでも揺れていた。

 次の瞬間、ナツミの背中に冷たい水が触れた。現実の感覚だった。
 夢の中に、現実の気配が差し込んできた。

「そろそろ帰る時間だよ。君はまだ、向こうに立ってるんだから」

 彼の声が遠ざかる。舟隠しの岩場が、音もなく崩れ始める。

「まって! あなたの名前、本当に……」

「呼ばないで」
 その言葉だけが、鋭く、夜の海に刺さった。

 呼ぶことは、渡すこと。
 名を呼ぶということは、自分の何かを誰かに渡してしまうこと──。

 ナツミは、崩れ落ちる岩の中で立ち尽くし、次の瞬間、はっとして目を覚ました。

 朝。ナツミの足元の畳が濡れていた。
 夢で濡れたはずの足が、現実でも何かに濡れていたのだ。
 ふと、彼女の部屋の窓際に、白いシャツがひとつ、置かれていた。

 潮のにおいがした。

第三章 名を継ぐもの

午後、ナツミは学校の帰りに海沿いの道を選んだ。
 クニジイの家の角を曲がると、潮のにおいが濃くなる。波の音は心をなぞるようにしつこく耳に残り、今日はなぜか風が強かった。

 帰宅すると、母が縁側で古いアルバムを見ていた。
 茶と藍の浴衣の袖が風にゆれ、隣の席には誰もいないのに、母はまるでそこに誰かが座っているかのように穏やかな顔をしていた。

「……お母さん、少し話してもいい?」

 母は微笑んだ。「なあに?」

「“シユウ”って、知ってる?」

 その名前を出した瞬間、母の手が写真のページで止まった。

 ──ぴたり、と時間が止まったようだった。

「……忘れられるはず、ないわね。夏の村にいた子。15歳だった、あの子」

「お母さんと、知り合いだったの?」

「知り合い、というより……あの頃ね、私、この村にしばらく戻ってたの。体を壊して東京から戻ってきて、療養してたの。ちょうど、あの子が中学三年になる夏。時々、買い物帰りに港で出会ったり、浜で話したりしてただけ。私は27歳だったし、恋とか、そういうのじゃなかった。でも、あの子の目は、よく覚えてる」

 母はそう言って、ページをそっと閉じた。

「ねえ、ナツミ。あなたが生まれる少し前、夢ばかり見ていた時期があったの。“名を呼ばれる”夢。そのたびに胸が締め付けられるようだった」

「その声って……“シユウ”?」

「……ええ。呼ぶ声と、呼ばれる感覚が混ざった夢。……でも、あの子は私の名前を最後まで呼ばなかった」

 母は風を見つめるようにして、静かに言葉を続けた。

「だから私は、自分のなかに“呼ばれなかった名前”を、ひとつ隠していたの。子どもが生まれたら、その名前を贈ろうって思ってた」

 ナツミは息を呑んだ。

「……それって、“ユウ”? わたしの……もう一つの名前?」

「ええ。“夏実(ナツミ)”は戸籍の名前。でも、“ユウ”は、あなたが胎内にいたときから、私の中で呼びかけていた名前。……彼が呼ばなかった、けれど私がずっと抱えていた名前」

 ナツミの胸に、潮騒の音が一気に広がった。

 シュウが夢のなかで言っていた。「君に呼ばれた」「君は名を持っている」──その意味が、いま静かに腑に落ちた。

 ナツミは、そっとつぶやいた。

「……わたしの中に、彼が呼ばなかった“名前”が残っていたんだ」

「そう。彼が渡れなかった橋の、その先に、あなたは立っているのかもしれない」

 母の目に、初めて少しだけ涙がにじんでいた。
 でもそれは、後悔というより、ようやく何かが解けた安堵のようだった。

 その夜、ナツミは再び舟隠しの夢を見た。
 波はなかった。風もなかった。ただ空が、深い緑色に光っていた。

 その岸辺に、白いシャツのままの彼がいた。
 今度は彼のほうから言った。

「……君は、“ユウ”だね」

「うん。そう呼ばれるのは、はじめて」

 彼は、はっきりと微笑んだ。

「ようやく返事が届いたよ。……ありがとう」

 夢は、そこでふっと切れた。


第四章 名の橋を渡る日

 それは、奇妙に静かな夏の日だった。

 村は風もなく、潮の香りすら薄くなっていた。

 人々は昼寝を決め込み、電線の上では蝉だけが鳴いていた。

 

 ナツミは、母の鏡台の引き出しに白いシャツをたたんで置いた。

 もう、夢の中の彼にこれ以上、言葉を届ける必要はない気がした。けれど、返したかったのだ──名を贈ってくれた誰かへの、ささやかな返礼として。

 

 

 午後、ナツミはひとりで舟隠しへ向かった。

 草を踏む足音だけが響く。村を抜けて、天草が干された石畳の路地を過ぎ、防波堤を抜け、岬の岩場へ。

 

 風の吹かない岬というのは、どこか時間が止まってしまったようだった。

 波の音が、遠くの方でくぐもって聞こえる。ナツミはふと、シャツのポケットに入れた小さな貝を握りしめた。

 それは彼がくれたものではない。ただ、彼が海の記憶として残したもの──名を呼ばれなかった誰かの名残。

 

 岩の先に立つと、眼下には深い緑の海が広がっていた。

 舟隠しと呼ばれるその場所は、漁師たちですら近づかないという。潮の流れが不規則で、かつて舟が何艘も呑まれたという言い伝えがあった。

 

 だがナツミには、その深淵が怖くなかった。

 むしろ、そこには“名を呼ぶ声”がまだ残っている気がした。

 

 風が少し吹いた。

 

 ──ユウ。

 

 ナツミは、目を閉じた。

 

 今度は振り向かなかったが、確かに“返事”をした。

 それは声ではなく、身体の中に響く“肯定”だった。

 

「……わたしは、ここにいるよ」

 

 その瞬間、岩の先がふっと薄くなったように感じた。

 まるで何かが一層、透けていく。向こう側がある。現実の風景と夢の岸が、ぴたりと重なった。

 

 気づけば、目の前に細く続く石の橋のようなものが現れていた。

 それは海の上を走り、水平線の果てへと続いていた。

 

 ナツミは、ためらわなかった。

 

 一歩、足を踏み出した。

 

 二歩、三歩──と進むたび、世界が淡くなる。

 だが、完全に失われることはない。足裏に感じる感触がまだ、現実をつなぎとめていた。

 

 

 橋の中ほどにさしかかったとき、彼が立っていた。

 

 白いシャツのまま、あの時と同じ姿で。

 ただ、今度の彼の顔には、初めて“安堵”の色があった。

 

「君は、もう戻れるよ」

 

「……戻るって、どこへ?」

 

「君の名が向かうところさ。“名を呼ばれる”ことと、“名を持って歩く”ことは違う。君は、歩いて選んだんだ。“返事”を」

 

 ナツミは彼に問う。

 

「あなたは……“ここ”に留まるの?」

 

 彼は、海を見下ろして答えた。

 

「ぼくの名は、君の中で返されたから、もうここにとどまる必要はない。でも、ぼく自身は“戻る”必要がない。名が帰れば、それでいい」

 

 ふいに風が吹いた。

 橋が、海の霧に溶けてゆく。

 

 彼の姿も、徐々に消えゆく中で──最後にひとつだけ、声が届いた。

 

「ありがとう、“ユウ”」

 

 ナツミは微笑んだ。

 

 それは、風に呼ばれることのなかった名が、風のなかで解ける瞬間だった。

 

 

 夕暮れ。舟隠しの岬に、ナツミが立っていた。

 岩の上には、なにもなかった。橋も、彼の姿も。

 

 ただ、波だけがやさしく寄せては返していた。

 

 ナツミは、小さな声でつぶやいた。

 

「“返事”って、帰ることじゃないんだ。……自分の名前で、ここに立つってことなんだね」

 

 そう言って、振り返り、坂道を歩きはじめた。

 

 夏が、一枚、風に剥がれ落ちるように、静かに暮れていった。


終章詩:

わたしは 返事をした 声を出さずに 呼ばれることへ

名を差し出すようにして わたしは この場所に 根を張った

風があのひとをさらったなら 風が わたしを育てるのだろう

もう、名を失くさない

わたしは わたしの名で立つ 返事をする 誰かのためではなく、 ——自分のために